COLUMN

ゴガツノコト’23

文章を書くことに対して腰が重い。
5月が終わってすぐに5月にあったことを書けばいいのに、なんとなく翌月末まで書くことを引き延ばしてしまい、何があったかもあまり思い出せず、しかも5月分を書き切ったという満足感により6月分を書くことも7月末まで引き延ばしてしまうのだろう。
でもたまたま書く時間ができてしまったので書く。

5月のトピックを箇条書きにすると

・とある観劇体験に“おこ”
・仕事ついでの京都
・スマホデトックス

この3つになる感じはする。
最近のサザエさんも3本立てなのだろうか。
作者の長谷川町子さんは1992年に亡くなっているらしい。わたしが生まれたのは1991年。つまりわたしが物心ついた頃に見始めたサザエさんはおそらく長谷川町子さんの手から離れ、どこぞやのシナリオライターさんが手がけたものになっていたのだと思う。
原作者がいなくなってもなお作品が紡がれ続けているというのはとんでもなくすごいことだ。
クレヨンしんちゃんもそうか。
3本立てというところから長谷川町子さんについて知ることができた。これは良い情報だ。

まずとある観劇体験に“おこ”について。

まあもう蒸し返す必要もないのだが、今思い返せば、観劇後に抱えていた名もなき感情はしっかりと怒りを孕んでいたのだなと思う。
とあるお芝居を観に行った。結構な期待感を抱きつつ観に行った。劇場空間はかなり狭く、客席も30席あるかどうか。いわゆる小劇場というやつだ。
閉じた空間に、見知らぬ人たちが息を呑んで座っている。上演前の客席には謎の緊張感が漂っている。私自身はその緊張感が結構好きだったりする。

出演者として舞台に関わるときも開演前の静けさには感じるものが多々あるし、それこそ観劇体験がもたらす非日常の最たるものだったりするのではみたいなことも思ってしまう。

開演直前、そんな緊張感を切り裂くように制作からの営業アナウンスがなされた。まあぼかして言うと上演台本的なものの販売アナウンスと団体運営のためにご協力を的な内容だった。

私は、あくまで私はその瞬間にお金の匂いを感じてしまった。観劇体験に対しては不必要な雑味成分という感じがする。
お芝居を観るということに対して、わたしは納得してチケット代を払った。そこに対してはお金の匂いは別にしない。多分納得してるからだと思う。
でも上演前に、しかも直前の緊張感が最高に高まった状態で。

観劇中、その雑味成分が作品を圧倒的に汚している感じがして、全くもって集中して観劇できなかったというか、自分の中の批判性がものすごく脳みそと心を占めてしまった。
観劇後は「これはこれで、観劇体験がもたらしたものだ」と自分を納得させようとしていたけど、今思い返せばあの感情は怒りだったと思う。

お金の匂いは漂うね。

二つ目のトピック。仕事ついでに京都一泊した話。

ハンドキャリーの仕事を始めて早数ヶ月。京都出張の翌日が休みだったこともあり、京都で一泊することにした。
急遽決まったことだったけど、泊まった古民家も知人に教えてもらったお店も全てが素敵で、ご飯も美味しくて。「ああ、本当にこの仕事を始めて良かったな」と心から思えた。

もっともっと地方に行きたいぜ。

最後のトピック。スマホデトックス。
仕事とかとは全く関係なく、静岡のサウナしきじに行くことになった。静岡県が誇るサウナの聖地だ。

わたしはこれまでも幾度となく訪れてきたのだが、せっかく行くのならということでスマートフォンの使用を全て禁止してみるという試みをしてみた。
静岡に着いて美味しそうなお店を探すのも街にある地図を頼りに向かう。そもそも美味しいお店情報だって、街行く人々から聞き込む。

サウナしきじの休憩室。
ととのいタイムにはふとスマホを触ってしまいたくなる。少なくとも今まではそうだった。何の考えもなくスマホを開いてしまう。でも今回の旅ではスマホを禁止しているので、ただひたすらボーッとする時間を過ごすことができた。
また定期的にスマホデトックスはやりたいなあと思える試みだった。

どうやら怒りの感情は残りやすいらしい。月初めに起きたことなのに未だに熱感を持って文章を書くことができた。

穏やかに過ごしたいけどね
なかなか難しいよね
ロクガツノジブン

ということでロクガツノコトはいつ書けるのかなゴガツノコト。

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